ブルーウェーブの“ニューウェーブ”〜2002年入団のルーキーたち

皆さんは、覚えていますか?



仰木彬監督が勇退し、石毛宏典監督が就任して、
“新しい”ブルーウェーブの幕開けとなった2001年オフのことを。



監督が代わり、チームも新しく生まれ変わるべく、選手も大幅に入れ替えました。
このときのドラフトでは、実に14人も新人を獲得。
14名の選手たちが、「2002年度ルーキー」として華々しくプロの世界に飛び込んでいきました。





しかし、現実は厳しい。
このときに入団した選手のほとんどは、実力を認められてというより、
プロ野球選手になりたい」と夢だけで、
その夢を叶えるために「入れてもらった」選手ばかりでした。
夢だけで成り上がれるほど、プロの世界は甘くない。
2006年オフの今現在。
プロ野球界に残っている選手は、14人中6名だけになってしまいました。
他の8名のほとんどは、今どこで、何をしているのかすら、わかりません。
ここで名前を挙げたとしても、よほど熱心なブルーウェーブファンでなければ、わからないでしょう。
そのくらい、実績をほとんど残さないまま、彼らは球界を去っていきました。





逆に考えれば。
今でも残っている6名が、いかに凄い選手たちなのかがわかります。
悪い言い方をすれば、
「君たち、プロ野球選手になりたいんでしょ。だから入団させましたよ。
 良い環境も整っていますよ。だから頑張ってね」
と、半ば“丸投げ”状態で、プロの世界に飛び込ませたようなものです。
そんな中、自分自身の努力で“実力”を伸ばし、“競争”を勝ち抜き、
厳しいプロ野球の世界に、今でも生き残ることができたのは、並大抵のことではないでしょう。


自由競争枠「青波の牛若丸」平野恵一

平野といえば。
今年5月の試合中、体を張った全力プレーで、
普通だったら選手生命が絶たれるような・・・いや、死んでもおかしくないほどの重傷を負ったことで有名です。
あの瞬間を映像で見て、ショックを受けた野球ファンも多いでしょう。
しかし。ブルーウェーブから平野のことを見続けてきたファンにとっては、
ショックを受けつつも、どこかうなづけるところがあったのも確かです。
「平野はもともとああいうヤツだよな・・・」「前から平野はあんな選手だよ」と。



平野は入団当初から、自ら「感動を与える全力プレー」を理想に掲げ、実践している野球選手です。
“感動を与える”ためであれば、どんなプレーも絶対に手を抜きません。
ブルーウェーブ時代には、試合中にアゴの骨を骨折したこともあります。
平野が他の選手と、一味違うところは。
試合にしばらく出られなくなるような重傷を負ったとしても、絶対に悔いていないということ。
絶対に、自分がやったプレーを否定しない。
そして。
怪我が癒えて復活してからも変わらず、
いや・・・・・
以前よりもグレードアップした「全力プレー」を魅せて、私たちにさらなる“感動”を与えてくれるのです。

5巡目「俊足スピードマスター」早川大輔

入団当初から脚の速さをアピールしていました。
1年目の2002年は、二軍で24盗塁を記録。
もちろん、当時の二軍メンバーではダントツトップの数字です。(次点が平野の5盗塁)
2年目となる2003年の公式イヤーブックに、彼はこう、メッセージを残しています。

今年はさらにかき回します。

なんて自分がわかっているんだろうと、目から鱗だったことを覚えています。



ここ数年は盗塁のサインが出ることも少なくなりましたが。
キャラクターの明るさでも、次第に存在感を示すようになりました。
近鉄との合併後は、同級生の下山真二と名コンビで「シモ爺」「ハヤ爺」と呼ばれ、
ベンチからチームを盛り上げて、2005年のチームの大躍進に貢献しました。
彼ら2人とも一軍登録しているときの、ベンチの雰囲気の明るさといったらなかった。
2005年7月、試合が雨天ノーゲームになったとき、その早川と下山のコンビが中心となって、
天然芝でスライディングという爆笑パフォーマンスをしたことも、今ではいい思い出です。

8巡目「ブルーウェーブNo.1の元気者」竜太郎

女性人気“ナンバー1”のブルーウェーブ選手といえば・・・・・
ズバリ、竜太郎だろう。
「イケメン」とはちょっと違うけど、典型的な「モテる」タイプの男です。
その爽やかな笑顔と、元気で明るい性格は、女性でなくとも惹かれるものがあります。
竜太郎の存在感が光ったのは、合併直前のあの頃。
2004年9月、ストライキの日に実施されたブルーウェーブ選手会主催のサイン会のときでした。
竜太郎は持ち前のリーダーシップを発揮し、率先して、若手選手組のサインの列をつくりました。
ファンの輪の中に自ら飛び込んで、場内を整理するその姿は、意外なほどに“普通”でしたが・・・・・
それだけ、竜太郎が「親しみやすい」選手だったということです。
将来は、頼もしいチームリーダーに成長してくれるだろう。
そう願っていましたが・・・・・



竜太郎は、楽天に行ってしまいました。
二軍暮らしが長く、その姿を、神戸・大阪でほとんど見られないのが残念です。
竜太郎よ・・・・・
元気か?今の調子はどうなんだ?
ブルーウェーブ”ファンは、今でも、竜太郎のことを心配しています。

ドラフト9巡目「一球入魂のサムライ」本柳和也

本柳といえば、とにかく「人に優しい」「愛想が良い」選手です。
ファンサービスにも積極的に取り組み、つねに笑顔で対応してくれます。
質問や声かけにも丁寧に答えてくれるその姿勢は、まさに好感度“ナンバー1”です。
その優しさ、人当たりの良さは、ファンに対してだけではない。
先輩の選手にも、物怖じすることなく話を聞きに行ったり、先輩が練習する姿をじっくり観察したりしています。
後輩の選手にとっても、本柳は近づきやすい存在であり、後輩から気軽に話しかけています(軽くあしらわれている?)
だから、試合前の練習中、本柳の周囲にはつねに人が集まっています。



本柳は「誰に対しても」優しいのだ。



しかし、マウンドにあがると“勝負師”の目つきに変わり、強気のピッチングで打者に立ち向かいます。
が。
そのマウンドでも、本柳の「優しさ」の一端を垣間見ることができます。
イニング途中で投手交代がコールされ、マウンドから下がるとき。
つぎの投手がやってくる前に、自らの手で、マウンドをきれいに整えています。
そして、つぎの投手が右か左かによって、ロージンバッグを置く場所を微妙に変えているのです。
自分主体で考える選手が多い投手陣の中で、こんなに他人に気配りができる選手も、珍しいですよね!?

10巡目「キラリと光るセンス」後藤光尊

10巡目という比較的低い評価で入団したルーキーイヤーに、開幕スタメンを勝ち取った珍しい選手です。
バッティングで高い評価を受けていますが、一方で、守備に難がある一面もありました。
そんな後藤だが、なぜか定位置は「遊撃手」もっとも守備力を要求されるポジションです。
当然、ミスを連発することもしばしばありました。
後藤が他の選手と、一味違うところとは。
ミスをしても、決してヘラヘラしたりしないところです。
思いっきり悔しがるわけでもありません。
ヘラヘラせず、かつ、失敗を恐れずに積極的にボールに食らいつく姿に、闘志を垣間見ることができます。
そんな後藤の姿勢をみんな知っているから・・・・・
どんなに失敗しても、首脳陣は、後藤を内野の布陣から外すことはありませんでした。



そんな後藤の“積極的な”姿勢が花開く時が、ついに2006年に、やってきたのでした。
試合中の怪我で長期離脱を余儀なくされた正遊撃手・阿部真宏に代わる「暫定遊撃手」として、
なんと、後藤が台頭したのです。
数ヶ月間、スタメンでショートを守り続けているうちに、守備力が格段にアップしました。
阿部の怪我が癒えて一軍に復帰したとき、阿部がショートの定位置に戻れないほど、
後藤の「遊撃手」としての存在感は、いつの間にか大きくなっていたのでした。
結局、終盤戦のショートは阿部・後藤の併用となりました。



後藤の「センス」とは、打撃だけではない。
ショートの守備だって。試合に出続けさえすれば、後藤にも、やればできるのです。

11巡目「遅咲きの努力家」牧田勝吾

入団以来、毎年、二軍でレギュラーに定着し、バッティングで好成績を残している選手です。
二軍ではコンスタントに出場を続けていますが、チーム編成の都合上、一軍登録の機会が限られています。
牧田が必要になるのは、右の代打が手薄になったとき。
出番がいつ訪れるかわかりませんが、いざというときのため、牧田のような選手は絶対に欠かせません。
いつ、いかなるときにも、一軍に呼ばれてもいいように。
二軍であれ、牧田はコツコツと練習と実戦を積み重ね、つねに万全のコンディションで“そのとき”に備えています。



牧田の凄いところは、そこにあると思うのです。
結果を残しているのにもかかわらず、二軍生活が続くと、モチベーションを維持するのが難しいところだと思います。
しかし、牧田は違う。
どんなに一軍から呼ばれない期間が長くても、気持ちを切らさずに、手を抜かずに練習に取り組んでいます。
二軍でレギュラーを獲れる秘訣は、そんな牧田の「姿勢」にあるのでしょう。
牧田が、チーム随一の「努力家」と言われている所以です。



しかし、心配なニュースが。
現在、牧田は故障を患っており、秋季練習にもキャンプにも姿を現していません。
具体的に、今何をしているのか。
まったくわからないのが、少し気がかりです。
牧田の、一日も早い回復を祈っています。




2002年ルーキーが“一味違う”その理由

2001年を最後に、長らくブルーウェーブの指揮をとっていた仰木監督勇退しました。
それまでのブルーウェーブは・・・・・
よく言えば「クール」「スマート」
しかしながら、悪く言えば「のんびり屋」という側面をありました。
ミスをしても、試合に負けても、
悔しさを前面に出さない。
それどころか、ヘラヘラしている選手すらいる・・・・・
今もオリックスに在籍している選手で、2001年までに入団した選手には、
少なからず、そんなところがあると思います。



いい意味でも、悪い意味でも、
闘志を見せないことを「美徳」とする風潮があった。
それが「ブルーウェーブ・仰木世代」
そんな時代に育った選手たちの、悪しき面は、今も残っています。



しかし。
2002年、まったく違うタイプの指揮官が、ブルーウェーブにやってきました。
一軍監督“石毛宏典”、二軍監督“中尾孝義
ともに「熱血漢」の監督です。
今までとはまったく違う野球に、選手達は戸惑ったことでしょう。
それが、ブレーブスブルーウェーブ史上、最悪のチーム成績に繋がってしまったかも知れません。



そんな中。
この2002年に入団したルーキーたちは、前年までの「仰木野球」を体験していません。
石毛・中尾の“熱い”魂を、素直に吸収することができたのでしょう。
今でもプロ野球界に残っている6名の選手たちには、少なからず、そんな一面を持っています。
感動を与えるためなら、どんなプレーも全力でやりきる平野。
自分の長所を自覚し、積極的にアピールする早川。
明るさを元気を前面に出して、人を惹きつける竜太郎。
人当たりの優しさと、強気のピッチング、両方の感情をさらけ出す本柳。
絶対に人前でヘラヘラせずに、闘志を燃やしてプレーに取り組む後藤。
一軍の試合に出られなくても、決して努力を怠らない牧田。



みんな、少なからず、石毛・中尾両監督の影響を受けていると思います。



この「ダブル熱血漢」の下でルーキーイヤーを過ごした選手は、
オリックス球団史上、この「2002年度生」しかいないのです。





もう一つ、彼らに共通していること。
彼らは、プロ入り以来5年間、監督が交代するという“逆境”を、毎年のように味わっています。
2002年は石毛監督。
2003年途中から、レオン・リー監督。
2004年は伊原春樹監督。
2005年。オリックスバファローズ仰木彬監督。2002年度生にとっては初めての「仰木野球」です。
そして、楽天イーグルス田尾安志監督。
2006年。オリックス中村勝広監督。楽天野村克也監督。
ここまでの5年間は、いずれの選手にとっても、毎年のように監督が代わっています。



2007年。
オリックステリー・コリンズ監督。
そして、早川は新たにボビー・バレンタイン監督にお世話になります。
楽天は引き続き野村監督。竜太郎は、初めて2年続けての監督を経験します。
竜太郎以外は・・・・・・移籍の早川も含めて、プロ生活6年目を、6人目の監督で迎えることになります。
ルーキーイヤーから6年目に至るまで、毎年のように監督が代わるなんて、
プロ野球の歴史を見回してもそんなにいないんじゃないですか。



言い換えれば。
彼らは、プロ入り以来、落ち着かない環境の中に置かれ続けながら、野球を続けることができています。
同期生が次々に辞めていく中、彼らは実力を伸ばしながら、この厳しい世界に生き残っています。
本当に「ブルーウェーブ・2002年度生」は、凄い人たちです。



そして。
その根底には・・・・・
石毛・中尾の「熱い」魂が、
今も残っていることを、
私たちは忘れてはいけないと思う。








昨日もお知らせしたように、早川はロッテに移籍します。
考えを変えれば、これほど素晴らしいことはないでしょう。
“厳しい”環境にあったオリックスで、5年間培った「魂」が、
他のチームでさらに開花し、能力を発揮すれば・・・・・
日本のプロ野球は、そして、パ・リーグは、もっともっと面白く、魅力溢れる野球になるはずです。








早川、竜太郎、平野、本柳、後藤、牧田・・・・・
これからの日本プロ野球を面白く、盛り上げてくれるのは、
彼ら「ブルーウェーブ 2002年度生」なのかも知れない。