「タンポポ畑」は、もう二度と

そうそう。私が言いたかったことは、これなんですよ。
肯定的にも否定的にもなりきれなかった、あの「白いサイリウム」。あれって、会場で某団体が配布したものなんですよね。あれだけの本数を入手するのも困難だったとは思います。手間がかかっているとも思います。それをすべて配布し、貰った人がみんな一つの企画にのっかかってくれた、そのことは、それがそれで立派なことだと思っています。もっとも、あの会場に集まった人の大部分は、なっちがこの日をもって卒業っていうのをわかってて来場したことも推測できます。だから、全面的に否定をするつもりは、まったくありません。
しかしながら、私が肯定的になりきれなかった理由は「あのタンポポ祭り以上の感動は、あり得ない」そう思っていたから。ネット上の「黄色いサイリウムを持って集結しよう」っていう呼びかけに賛同した人たちが、あの日、会場に、約束どおり黄色いサイリウムを、各自で購入したものを持ち込んだ。そして、これまた約束どおり、タンポポの出番がきたときに、持ってきたサイリウムを掲げた。呼びかけに純粋に賛同した人が、一つの美しい“景色”を創り上げた瞬間だ。結果的に、企画した人が思っていた以上の感動を作り出すことができた。こういう手法ってそれまではなかった、だから「ああ、なるほど、こういう演出があるのか」ってみんなが大きくうなずき納得して、賛同してくれたのでしょう。その結果があまりにも良かったから、一層感動をおぼえ、いまだに伝説として語り継がれるに至っているのでしょう。言い方は悪いかも知れませんが、あれ以上の感動は、あれ以来ないと、わたしは思っています。
タンポポ祭りが良し、白いサイリウムは・・・、と単純に決め付けるつもりはありません。ある意味、やったもん勝ちなんですよ。それはまず一つあると思います。たとえ、あの白いサイリウムを、会場で配るんじゃなく、各自が持ってきたとして、タンポポ以上の感動になったのか?それは結局、今となってはわからないんですよね。一度、タンポポでやってしまったんだから。あれから、圭ちゃん祭りもありました。辻加護のときも、あるかも知れない。お約束事項になってしまうと、当たり前になってしまって、感動も薄れてしまうんです。これは誰が悪いわけじゃない、仕方がないことなんです。
それと、あのタンポポ改変に対して、事務所は何の特別なイベントも仕掛けてません。ファンによって、そういった“特別なイベント”を創り上げる必要があったわけです。仕掛けなければ、納得いかなかったでしょう。あの黄色いサイリウムがなければ、ひょっとしたら、私もこの「大改革」を丸ごと受け入れ、何の疑問ももたずにスルーしてたかも知れない。(事務所側は、おそらく、何の疑問ももたず受け入れて欲しかったのだと思います。)まさに、熱烈なファンが生み出した、制作側の筋書きに書かれなかったドラマが、制作側の演出力を上回ったといえるのではないでしょうか。0+α(アルファ)の足し算で、答えが∞(無限大)になったって感覚かも。
なっちの場合、すでにいろんなイベントが制作側によって用意されていました。私たちは、基本的にはそれにのっかかれば良かったんです。そして、ファン個々がもつそれぞれの思いによって、個々がそれぞれの形で表現していけばいいと思うんです。それがいわゆる「卒業プロジェクト」であったり、白いサイリウムにも繋がったのだと思います。なっちには、その思いが伝わったと思いますから、結果的にはこれも「良かった」と言えるかも知れません。この場合は「製作者の意図」と「ファンの思惑」がうまく一致した例だと言っていいかも知れません。ひょっとしたら、制作側もサイリウムやってくれないかなーって期待していたのかも?1+1が、無駄なく足し算されて「2」となったって感じでしょうか。
それぞれ、過去の思い出など大切な思いが詰まってますから、単純に比較するのは滑稽だとは思います。それでも、敢えて相対的に見直せば、あの「タンポポ祭り」以上の感動はあり得ないんです。求めないほうがいいのかも知れない。感動とは、意図して作り出すものじゃない。意図せず生まれてしまうもの、それが本当の意味での感動だと思うから。