11.20放送分の、疑惑について

昨日放送の「ヤンタン」に出ていなかったことが、あまりにも気になったので、例の疑惑について、調べてみることにしました(調べた内容の詳細は、敢えてここでは割愛します)ていうか、この疑惑については、この日のヤンタンだけじゃなく、他にもあるみたい。疑惑の詳細を述べたサイトも見つけましたので(ここではURLは割愛します)いろいろ知ったうえで、今更ながら、私の見解を。
私は、なっちのポエムを、そのまんま「なっちの手により、表現されたもの」と受け取っている一人です。放送されたものも、エッセイに記載されたものも。私の知るなっちのイメージと、違和感なくオーバーラップしているがゆえに、何の疑問も持たずに、その詞の世界を受け止めています。この時点で、そのポエムは、なっちを通り越して、すでに「私」のものなんですよ。どういう気持ちで、なっちはこれを綴っただろう・・・・・この詩の世界から推測して、今のなっちの置かれている状況とは、どんなものなんだろう・・・・・ここから先は、もう、私の脳内での世界です。ここから先にいってしまえば、もう、なっち自身のコメントなんて、いらないんです。私の頭の中で、想像を膨らませて、妄想を繰り広げていればいいんですよ。気持ちを抑え切れなくなったら、溢れる思いを、この日記に書けばいい。それが楽しいんです。私の中で、なっちに対するイメージが広がり、ますます、なっちを好きになる。それが「ポエム」の効能です。
もう一つ言うと、なっちが作ったという名目のもとに、なっちの手で書かれていたり、なっちの声で読まれていたりする時点で、それは「なっちの作品である」ということになるんです。少なくとも、その時点でなっちは、自分なりに、その詩の世界を自分の中で消化し、噛みしめているはず。このとき、作品はなっち自身のものなのです。ひょっとしたら、私たちが受け取る思いとは、異なる場合があるかも知れません。それはそれで、あり得ると思います。私たちが知らないなっちも、当然あると思いますから。それがあるないに関わらず、なっちは、その作品についての自分なりの思いだとか意見だとかを、必ず持っています。これが、その作品が「なっちの作品である」ということなのです。
そういった作品を綴る上で、なっちが、他人の作品を、悪意があって拝借したかどうかは、それは、私にはわかりませんし、なっち自身にしかわかりません。自分がいろいろな人の作品を見たりして勉強していく過程で、いいフレーズが脳内にインプットされるということは、あり得る話です。そうでなくても「ことば」は無数にありますから、それを自分なりに繋ぎ合わせた結果、たまたま似てしまったと言うのも、あり得る話です。それをいちいちチェックなんてしようと思ったら、それこそ、全世界の著作を拾い上げて検討しないといけませんが、そんなこと、できるわけないじゃないですか。私たちの思いだけで、勝手に決め付けるわけにはいかないと思います。あくまで、作品をつくった本人の意見を尊重するべきだと思います。客観的意見だけを恐れてたら、ポエムなんて作れないですよ。逆に、普通に作ったつもりでも、また、意識的にオリジナルにしようとしたつもりでも、それが完全なオリジナルだとか、自分だけのものだとか、誤解をしちゃいけないと思います。何かに似ているっていう可能性は、どんな場合もあり得るのだから。
だから、この件について、私は誰が悪い、何が悪いとか、いいようがないんですよ。事実は私たちにはわかりませんし、なっち自身にしかわかりませんから。
もし悪意があったとしたら*1猛省してもらいたいと願っている。悪いことは、悪いことだから。
もし、そうではないと、なっちが言うのならば・・・・・私は、なっちの言うことを、信じるしかありません。それ以上はなにもない。今後も、今までどおり、なっちが発信するものを、ファンとの立場で受信するだけです。
それよりも私は、こういうときに、ヤンタンを欠席するなと言いたい。もし自発的に自粛したとしたら、それは中途半端な対応でしかない。こんなことぐらいで自粛するなと、叱り飛ばしてやりたいです。

*1:たとえ、なっちであっても「悪意を一切持ち合わせていない」なんてことはないと思います